●雨に4冊●『生命の実相・総説篇/実相篇』『眼球譚(初稿)』『第四間氷期』『巫女』

2008年12月17日 23:47:46

本を読んでいると、それが全部言葉なんだな、と思う。
冷たい雨、コトバと一緒に本を読む。
こっちを向いているコトバに向かって、読み上げる。
コトバは、首をかしげ興味なさそうにそっぽを向いた。
本というものの中に書かれている事ごと全部が言葉で書かれて、

一体なんなんだ、と思う。
何なんだと思いながら、言葉を読む。本を読む。
それが「意味」や「何か」を持って、自分が理解していくことが不思議だ。
冷たい雨、コトバと一緒に本を読んだ。
そして、

これまで、本を客体において捉えていたことに、はたと気づいた。

次の公演のイメージが大きい。
画だけがあって、物語が一時停止している。
いくつかのキーワードがあって、物語が停滞している。
画とキーワードが未だ抽象の霧中にあるからだろう。
けれども、この今のイメージが一番純度が高いこともわかっている。
画を物語に細分し、キーワードを言わんがための修飾をしていくと、

物語は鈍化する。

そんな作業をすることなしに、一本の演劇を一言で伝えきることができれば。

また万年筆で物語を削りだすのだろう。
「月夜」というインクで原稿用紙を濡らすのだろう。
純度の高いイメージを鈍感させていくことに怯える。
怯えながらまたそこに歩く自分を知る。
他に方法はないものか。
演劇という表現をその矛盾を払拭できないか。

他の表現方法なら可能な気がする。
例えば、画を描く。
例えば、舞う。
例えば、叫ぶ。
例えば、歌う。

冷たい雨。本を読みながら、言葉のそもそもの純度を思う。
削るのではなく、磨くという方法はどうだろうか。
そんなことを思うも、言葉を増やさずに、一言を磨くという手段を思いつかない。

『生命の実相・総説篇/実相篇』(第1巻)谷口雅春
『眼球譚(初稿)』著/ジョルジュ バタイユ_訳/生田耕作
『第四間氷期』安部公房
『巫女』著/ラーゲルクヴィスト_訳/山下泰文

どの本も、どの物語も、劇化される。

谷口雅春の既成の宗教を全て越えた言葉も、
バタイユの人間の根源的エロスも、
安部公房の予言も、
ラーゲルクヴィストの神の饒舌も、

何もかもが演劇されるべきだ。
言葉と人間の関係、言葉と演劇の関係。
演劇は止揚されなければならない。

そのために、まず否定されるべきだ。演劇を否定しなければならない。
脚本を書くという構築された方法論を捨て去らなければならない。
演出をする方法というものがあるとすれば、捨てなければならない。
演劇を構成しているいくつかのエレメントも再考されるべきだ。
演劇という表現そのものを否定しなければならない。
今、みんながそれらを保存しようとしている。
それら全ての手段や目的や方法を「よし」とし、必死に守ろうとしている。
そんな場所からは何も生まれないことがわからないのか。
集団で守り抜いて生まれるのは、手垢のついた演劇だけだ。
演劇は止揚されなければならない。

と、冷たい雨に向かって豪語してみる。
豪語してみるも、「じゃあ、その止揚される演劇を説明してみろ!」と言われたら、
言葉が、ない。

言葉がないから書いてるんじゃないか!
と、雨に逆切れ。

ほら見ろ、結局、読むか、書くか、死ぬかしかないじゃないか。

平和台の喫茶店で話をしているうちに、雨があがった。