●848●『われ、死すとも瞑目せず』『一日一生』『永遠のドストエフスキー』

2009年3月11日 22:35:41



いろんなことを数値化して把握していく、という性癖がぼくにはある。
なんでもかんでも、今ではほとんど無意識にやっている。
数値化、と一言で言っても方法はたくさんだ。
20とか、89とか、そんな数値に置き換えていることもあるし、
様々な座標面にそれらを置いていたりする。

いろんなことを、と書いたけれども、本当にいろんなことだ。

朝起きて、煙草に火をつけて立ち上る煙の行く末や、
積み重なっている稽古における劇団員の感情の振幅や、
バイクに乗っているときの自分の位置と地球の自転や、
稽古場から三々五々散っていく劇団員の後姿の在り様や、
毎日乗っているエレベータの上昇速度と自分の感情の関係や、
おはよう、と稽古場に入って目が合う劇団員のぼくの知らない今日一日や、

そんな事ごとを数値化して把握している。労力ではない。
瞬時にそんなことをしている。
数値に変換されたり、それらが座標に置かれたり、
或いは数直線のあっちとこっちに打たれたりしたあとに、
また、やってる、と、苦笑する。

分かりやすいんだろうな。

数値化して把握することが、問題の合理的な解決に役立つということを、
いつだか知った。
見沢知廉三回忌追悼公演の準備の間、
頭の中には、様々な人間関係が数枚のグラフ用紙に描かれ、
いくつもの方程式が据置かれ、関数は孤立し、
けれども、

夜一人になり、頭の中のグラフ用紙を広げて見ていると、問題の解決が早かった。
問題の座標は、回転させることもできるし、移動させることもできる。
その問題が複素数を含むものか、そうではないのかで、四則演算が変わってくる。
マイナス×マイナスは必ずしもプラスにならず、
ならば、と、方法を思考する。

問題を望んでいる自分を知っている。
トラブルをどこかで望んでいる自分を知っている。

カルシウムが少し不足かな、と言われたコトバの餌に
粉のカルシウム剤を一つまみ、真夜中。
この室内をその全宇宙とするコトバの飛行経路をずっと3次元のグラフに追ってきた。
コトバの目、飛び立つ前の体の角度、雰囲気、
それらを見ているとどのコースを飛んで、どこに着地しようとしているか、わかる。

イレギュラーな経路をとることはほとんどない。

演劇に携わりながら、問題が起こる。そりゃ起こる。常に起こる。
そして、大体がイレギュラーバウンドする。
それもまた楽しいのだけれども、

例えば、22歳の演劇人と42歳の演劇人。その差は20年。
演劇という芸術において、その20年の差は、全くない。驚くほどない。
創り出す過程やその結果に20年の差がでることは全くない。

例えば20年という差におけるそれは、なんだろう。
と、考えてみていた。あるとすれば、問題の「抱え方」だけかもしれないな、と思った。
思ったけれども、それは個人の性質かもしれない、と。
ちょっと考え続けてみようかなと思ったけれども、
答えは、面白くないようだ。考えるに値しないな、と思考実験の前に問いを捨てた。

そんないくつかの思いついた問いさえも数値化して、
この頭の中の「SF」という場所に保管する。
保管しておいて、どうなるというものでもないけれど、容量がある限りはとっておく。

この頭の容量がどのくらいか、それは知らないけれど。

『われ、死すとも瞑目せず』平沢貞通(374)
『一日一生』天台宗大阿闍梨 酒井雄哉(187)
『永遠のドストエフスキー』中村健之介(287)