眠るコトバを前に暴走する

2009年5月3日 23:03:55

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朝起きると、あいさつをする。おはよう。
おなかをすかせた顔をむけ、「にゃー」となく。
餌の準備をしていると待ちきれないコトバは「早く、早く」と大暴れ。
食べるだけ食べて、おなか一杯になると、「ぷしゅ!」とくしゃみみたいなものをする。
何だろう? といつも思う。
「ぷしゅ!」

日によっては、「ぶしゅ!」と、聞こえる。
何だろう? おなか一杯の合図か、それともふくろう一般の生態か。
「ぷしゅ!」と言うといつもの止まり木に飛んでいく。
飛んでいってくちばしの手入れ。
あっちにこすりつけ、こっちにこすりつけ、ごしごしごしごし。

先日誕生日をむかえたコトバ。三歳と数日の今日もいつもとおんなじ。
おなか一杯になったら、くちばしの手入れ。
それが終わるとぼんやり。ぼんやり。
いつの間にか目は閉じ、笑い顔の眠い顔。外で鳩が鳴くと少しだけ首を向け、
でも睡魔には勝てないか、笑い顔の眠い顔。
「ほ、ほー」と声をかけると、
めんどくさそうに、「ほ、ほー」と返事をする。

止まり木でのんびりぼんやりしているコトバを眺めながら、
次の舞台のことが頭を離れない。
脚本が仕上がったわけでもない。本格的に稽古に入ったわけではない。
頭を占めているのは、その膨大で重層なイメージだ。
不安になるほどの質量を持つそれが、脅迫的に迫ってくる。

(このイメージを言葉にするのか)
(この質量を劇団員に言葉で伝えるのか)
その具体的な時間に戦慄する。
この舞台に言葉は必要ないんだ。本当だ。
言葉が二義的位置を占有したまま表象には上がってこないんだ。本当だ。
けれども、書き始めた脚本にはこれまで以上の言葉が並ぶ。

いや、この舞台は、言葉そのものだ。
俳優の肉体が言葉に変質し、
俳優の一挙手一投足が言葉となり、
全てが言葉で構成されなければならない。
言葉で構成されながら、言葉が二義的な位置を占め続け、

じゃあ、表象に上がってくるのはなんだ。
何枚もの紙芝居。

矛盾を孕んでいることはわかっている。
イメージに言葉を必要としないと一つの宣言を高らかと掲げながら、
舞台上の全てが言葉に変質しなければならない、という命題を立てる。

常陸舗道の置き場で劇団員有志で舞台装置を組んでみる。
頭に描いていた通りのものができあがり、そうだ、
お墓参りに行こうと、思った。
毎年、そうだ。なぜか、5月のこの時期に不意に振り返ってみたくなる。
ぼくの背後を振り返り、言葉を探す。
毎年そうだ。なぜか、それは知らない。知りたくもない。
たかだか数十年の半生を、振り返ってみたくなる。

コトバは、夜のど真ん中を待っている。
眠たい顔で、そのときを待っている。
言葉とイメージの完全な結合を夢見てきて、それが今目の前にある気がする。
脚本を書き始めている。
目の前にある気がするけど、気がするだけで五里夢中。
これまでの方法を全て捨てて、夜の夜中に月夜を満たす。

言葉の全くないイメージなのに、言葉を書き、それを占めている。
たかだか数分のシーンの為にもう20枚を費やした。
だからといって、升目を埋めた言葉が俳優に対する何かしらの説明や、
具体的な現象をあらわしているわけでは、全然ない。
じゃあ、全く無為無駄な言葉なのか。

わからない。こんなに完全に見えているのに、こんなにわからない。
作劇に集中できるように、この企画の準備は早くから取り掛かり、
制作のゆーこちゃんと休みという休みを潰し、作業を続けてきた。
制作方面の事ごとは、そのため順調だ。
これからまだ作業が残ってはいるけれども、ここまで下準備をすませたから不安はない。

あと4ヶ月か。脚本も間に合うだろう。
1ヶ月もすれば、劇団員全員揃っての稽古に集中できるだろう。
一人でも欠けたら何もできない舞台だ。一人でもいなければ何も見えない舞台だ。
ぼく一人が、もしかしたら、焦っているのかもしれない。
ぼく一人が、勝手に走っているのかもしれない。なあ、コトバ、そうなのかな。

眠い顔をしていたコトバは、今夢の中。このキーボードの音にも反応せずに、笑い顔の眠り顔。
脚本を書き上げて、稽古に入ろう。そして、音楽を作ろう。
既製の曲じゃうまくはいかない気がする。
なあ、コトバ、あれが作曲と録音の機材だ。凄いだろ。
古めかしい機材だけど、作曲は機材じゃない。心意気だ!
そうだろ、コトバ。

筆がすべることもなく、升目が埋まる。
これまでにこんな脚本があっただろうか、と楽しく書き進める。
(そりゃもう脚本ってものじゃないな)コトバの声。寝言か?
そうだな、こりゃもう脚本じゃない。
でもいいんだ。
だって、この舞台のイメージに言葉は全く必要ないんだから。

コトバは、深い眠りに入ったのか、置物のよう。5月3日か。
22年前の今日は、朝日新聞阪神支局襲撃事件・赤報隊事件があったんだ。

夕方から、友人と会い、全てを語ることのできる友人と会い、
驚くほど正直に何もかもを語り、ろくでなしの彼は、

「高木さんほどのろくでなしを見たことがない」と言った。
清志郎が亡くなった。
癌みてぇーなしょぼい病気で死んでたまるか、とどこかで声がした。

明日は寺山修司さんの命日。お昼に黙祷。
毎年、古い記憶が蘇る日だ。
そうか、この日があるから、振り返りたくなるのかもしれない。
高校生のあの日。上京したての高田馬場。罪という罪。
劇場での言葉の日。寺山修司という球体の記憶が360°

ろくでなしの友人と会い、帰りの電車の扉ガラスに映る自分の顔を見ながら、歌った。

みんなが行ってしまったら
わたしは一人で 手紙を書こう

みんなが行ってしまったら
この世で最後の タバコを喫おう

みんなが行ってしまったら
酔ったふりして ちょっぴり泣こう

みんなが行ってしまったら
せめて朝から 晴れ着を着よう

寺山さんの命日の明日は、対談が二本。
鈴木さんから電話があった。

ああ、まずい、いつまでも書き続けてしまう。
何もかもを書き続けてしまう。自分が溢れ始めている。こぼれ始めている。
まずい。ぼくに栓をしようとキャップを探す。
いつもあるはずの場所に、ない。

どこだっけ、ぼくのキャップはどこだっけ。
清志郎の声や、寺山さんの言葉や、ろくでなしの笑顔や、コトバの眠りや、
こぼれていくぼくや、見沢さんの墓前や、真夜中近くの平和台や、
数十年や、たかだか数十年や、

まずい、書き続けている。
キャップはどこだっけ。

目を閉じよう。目を閉じて見よう。そうしなきゃらちがあかない。
目を閉じて、夜のど真ん中に口ずさむ。

見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし

吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

かくれんぼ鬼のまゝにて老いたれば誰をさがしにくる村祭

論点もくそもない駄文にもほどがある羅列。
分かっていても仕方ない、栓が見つからないんだ。
目を閉じてもこうして書き続けている。

ぼくはあの日、

見るために、両目を深く裂こうとした。