●252●『カルト漂流記 オウム篇』

2009年6月5日 21:15:39

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『カルト漂流記 オウム篇』早見慶子

(252)

早見慶子さんから、新著『カルト漂流記 オウム篇』をいただいた。
いただいて、二日後に読み終えたのだけれども、
感想をどう書こうかと、思案。そして、今、こうして書いてみる。
読了後の感想が今ぶれてはいない。思ったことは間違いなく、ある。
少しずつ言葉になりつつある。

『自然崇拝と人間崇拝』

早見さんは、前作『I LOVE 過激派』で自身の半生を正視した。
そこに描かれていたのは、
感傷ではない時代であり、感傷ではない嗄れた喉であり、
ページを開くたびに吹く風は、覚悟であり、やはり叫び続ける嗄れた喉だった。
そして、

本作に吹く風もやはりそうだ。
「早見慶子」が喉を嗄らし、時代を叫んでいる。

タイトルにあるように、これは「オウム真理教」を書いたものだ。
けれども新宗教論でも、時代論でもない。
「早見慶子」が体験した一つのドキュメントであり、一つの覚悟だ。

自然を崇拝するように、人間を崇拝するという、人間のみが可能な形態或いは様式がある。
「宗教」の「果実」が人間の中に実るならば、
「宗教」の「種子」も人間の中にあり、「人間」の中で芽を出し育ち、
「人間」を培養として、結実する。
確かにそうだ。栄養たっぷりの人間だ。

その種子を持った一人の女性が、
自ら己に水を与え続け、その木を育て、自らの体を省みず養分を分け与え、
果実が結実する瞬間に、その実の「あまりの低糖度」に気付いた。

自然を見て、そのあまりの美しさや恐怖や偉大さに恐怖する人間本来の感情が、
対象が人間に変わってもその感情が進行する。
自然を畏れない人間は、宗教心を持ち得ないという一つの証拠でもあるだろうし、
彼女自身が自然に対して恐るべき畏怖を感じている証拠でもあるだろう。

自然崇拝感情がなぜ人間崇拝にスライドするのか。
それは、本作に詳述されているわけではない。
なぜなら、「当たり前」だからだ。自然の中に含まれる人間である。
という当たり前のことを「感覚」する故に彼女自身にとって「当たり前」

『プロメテウスの心配事』

「当たり前」なんだ。いろいろなこと全てが。
ここに書かれている事ごとが「当たり前」に在り、当たり前に有る。
形而上も形而下もその狭間もない、
現世日本真っ只中に泳ぎ流れる一人の女。
そうだ、「一人」「独り」というのが、本書を読み解く一つのキーワードにもなっている。

ここには、抗いがたい流れがあり、波がある。

その流れは当たり前であり、そして、著者本人が進んだ道もまた当たり前であり、
そこに何人も異論を差し挟むことはできないだろう。
誰も、「早見慶子」という判断に参加することはできないだろう。

と、突き放した目で読みつつも、いつしか、自分がその流れに取り込まれている。
いつしか、その高波に呑まれている。

プロメテウスは、火を盗みコーカサスの丘に縛り付けられた。
毎日一羽の鷲が彼の肝臓を食べに来た。
昼間の間、プロメテウスは、鷲に肝臓を食われ、夜の間に回復した。
そんな毎日。長い長い苦しみ。

未来を心配してあまりの前方の目を向けるならば、
死や、貧困や、災害や、不安や、恐怖や、日々の日常に悩まされ、
睡眠のとき以外を除いて、
心配は休むことも停止することもない。

そして、それもまた、彼女にとっては「当たり前」だったのだ。

『問いを立て続けているオウム真理教』

この本には、もちろん「オウム真理教」の「事」がつぶさに記述されている。
新宗教と呼ばれるかもしれない。異教と呼ばれるかもしれない。
かつての「大本教」的思惟を持ちえる団体かもしれない。
犯罪集団というカテゴリもあるだろう。実際そうかもしれない。

はた、と考える。
人間がいかに多くのものを神格化し、「混沌」から引き上げてきたか。

天、大洋、遊星、大地、風、全てこれらは神だった。
男性も、女性も、鳥も、鰐も、子牛も、犬も、蛇も、玉ねぎも、ニラも神格化されてきた。
全部、神だった。
時や、昼や、夜や、平和や、和合や、愛や、闘争や、徳や、名誉や、健康や、熱までも、
神性を与え神殿を築き、崇拝してきた。
言語にも、愛欲にも、生殖にも、復讐にも、姦通にも、悪徳にも神性を与えた歴史がある。

宗教とは、なんなんだ、と問う。
「あなたこそが宗教ではないのか」と生命そのものがケイオスから浮かび上がり、
「あなたこそが宗教ではないのか」と世間そのものが表象し、

本書を読み終えたときに感じ、ぶれずに今もここにあるものの正体はそれだ。

「一つの問い」

早見さんは、経験の中からこれを書いた。記述した。
予見や、預言や、呪術妖術魔術を使わずに書いたはずだ。
多くの困難や葛藤があったはずだ。けれども書くことに向き合った。
定評のある彼女の洞察と分析はいかんなく発揮されている。
その洞察と分析が平易な言葉で語られていくので、読者は戸惑うかもしれない。

しかし、これは、洞察と分析に立脚した「一つの問い」だ。
はっきりと断言できる。
この本は、書くことによって提示される解答やテーマではなく、
「一つの問い」だ。

「問い」が立った。
この問いを証明し解を導いていくのは読者かもしれないし、著者本人かもしれない。