●157●『蒼白の馬上』

2009年6月20日 00:42:59

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ランダムに流れるitune
今日は何故か清志郎の声がたくさん流れる。こんな日もあるか。
目の前の時計は、電池を抜いたわけではないのに秒針が動いていない。

脚本のことばかり考えている。そんな時期か。
寝ても醒めても言葉を連ねている。そうだ! と、一冊の本を取り出した。
資料としてだ。『死の家の記録』ドストエフスキーだ。けれども、

資料としてはあまりにあんまりか、と、ぱらぱらとページを繰っただけで閉じた。
目の前の見沢さんの本を手にする。パラ見するつもりが、読みきってしまった。
ituneからは、また清志郎だ。どうしたんだ、今日は。

そういえば以前こんな夜に、形而上と形而下の間を見てしまったんだ。
形而上と形而下のまさに間。そこは、未だ名付けえぬ場所で名乗る必要のない概念で、
(ああ、ここがそうか)と。
あの夜、その狭間を見てから、何かが変わったわけではない。
見て、なるほど、(考えていた通りの場所だ)そう思っただけだ。
その狭間に人類共通の何か一言を与えることができるかな、と思った。
多分、無理だろう。無理だから、みんなが一生懸命に言葉を探しているんだ。
作家一人のだけの言葉かもしれないけれど、一言で言い得たいと。

そも、言葉の原意はそこだ。
完全に全人類が共通の認識の上に立てる言葉意があるだろうか。
「愛」と一言で言っても、60億を越える人智の数だけ意味があり、それらは違うだろう。
共通の意味を持ちうる言葉があるだろうか。

そう考えると、あの形而上と形而下の狭間を名付けえていないというのは、
人類の至宝ではないか。

脚本のことばかり考えている。言葉のことばかりを考えている。
そして、舞台のことを、劇団のことを、そればかり考えている。
それ以外のことはまったく考えていない。

劇団再生を形而上におく、という思考実験ほど楽しいものはない。
あっ、また清志郎だ。すごいな、今日は。

稽古が始まる。未完の脚本を手に劇団員が稽古場にそろい、稽古が始まる。
毎度毎度の試行錯誤。方法論なき方法。明日の五里霧中を手探りで、

稽古が始まる。
今頃、劇団員は渡した脚本を読んでいるか。
この脚本を読み、何を考えているか。彼らに舞台は見えているか。彼らに語る言葉は聞こえているか。

『蒼白の馬上』見沢知廉

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