●541●寺山修司を読む・・・『続 寺山修司詩集』『寺山修司詩集』『われに五月を』

2009年8月2日 23:18:03



見沢さんの大量の本を整理してみた。
段ボールから一冊ずつ取り出し、ページをめくり、書き込みを確認し、
最後の扉を見る。「348 高橋哲央」と書かれたものがたくさんある。
千葉刑務所で読んでいた本だ。
千葉刑務所の付箋が貼られているものもある。「11舎」と判がある。

見沢さんのいた、11舎独房。

ぼくは不思議と刑務所には入ったことがない。
机の周りに積まれた見沢さんの本を眺めながら、鉄格子、と呟いてみる。

隙間の時間に本を読む。次の作品のため、というわけではないが、寺山修司を読んだ。
タイトルもオープニングもできた次の作品。
モチーフも主題も副素材も主題の拡張もはっきりとしている。
少しばかり資料を集め読まなければならないだろう。

書きたい。

目の前にはいつも高い山。いらつくばかりだ。
書いても書いても、登っても登っても、山頂に近付くどころか、先が見えなくなる。
このシジフォス的労役、無限連鎖、笑うしかない。
とはいえ、今見えている山は、これまでの山とは、少し違って見える。
これまでは、一つの山の登山途中で山頂を見ていた。
けれども、

書きたい、

と思っている、今は、その山の9合目付近から、別の山を見ている感じだ。
この山の山頂は、どんなんだ、そんな興味や達成性をないがしろにしているわけではない。
ただ、次の山が見えているというだけの話だ。
そして、この山の頂も、すぐそこに見えている。それだけの話だ。簡単だ。

多分、次の作品を書いているときに、この山の山頂を見、そして、すぐに通り過ぎ、
感慨も喜びもなくただ通り過ぎ、
その先の山を登り始めるのだろう。それを直感する。間違いないだろう。

書きたい、

やっぱり、書きたい。そう思う。
次のタイトルをことあるごとに呟いてみる。
数年考え続けていた演劇への一見解、或いは、演劇への反逆を言い得たタイトル。
何度も呟いてみる。
この一言は、本当にぼくの言葉か。

稽古場から帰宅し、生活が、
ここにあることにうんざりする。生活を嫌悪し、一日を嫌悪し、
あなた、という世間を嫌悪し、百万人のあなたへ、

書きたい。

ぼくは、確かに今、ぼくを知ろうとしている。
空に、

手を伸ばすということが、42年もかかってようやくわかった。

『続 寺山修司詩集』寺山修司

(161)

『寺山修司詩集』寺山修司

(253)

『われに五月を』寺山修司

(127)