●1615●『アインシュタインの天使』『サイエンス・インポッシブル』『数学でわかる100のこと』『美女の骨格 名画に隠された秘密』『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』

2009年8月11日 22:56:43



今から40年ほど前に出された芝居がかった問題提起、

「百万人の飢えた子供にとって、いったい文学は何の意味があるか」

この(或いは)非難に対して、完全な答えを出した者があるだろうか。
当時、この問いに対してたくさんの作家が反響の声をあげた。
けれども、それらは全体に解答ではなかったように思う。
唯一、フランス人作家がこの問題提起に対して、問題提起を重ねるという手段に出た。

「いったい百万人の飢えた子供は、私の文学にとって何の意味があるか」と。

しかし、これも解答にはなっていない。苛立ちがあるだけだ。

問われ続ける芸術。
「人生のための芸術」「芸術のための芸術」「芸術のための人生」「人生のための人生」

不毛とも言える論争が繰り広げられ、トルストイやオスカー・ワイルドの世代で決着せず、
サルトルが引継ぎ、現代に引き継がれている。

それにしても、
「百万人の飢えた子供」問題において、なぜ文学が意味を問われたのだろうか。
たった一行の問題の中で巧妙なすり替えが行われていたことに
当時の作家は気が付かなかったのか。

問題が、「百万人の飢えた子供」という現実であるならば、
意味を問われているのが、なぜ文学や芸術なのか。
そこで真に問われるべきことは、政治であり、宗教であり、科学や、技術であるはずだ。

問題を文学に置き換えて、文学者自身が文学を責めることは、
誠実な心持のように感じるが、

それは、文学者の思い上がった特権意識だ。
芸術は実人生とは別の世界であることを主張するだけで、本来は充分だ。
だが、しかし、芸術の定義によっては、実人生=芸術、ともなる。不毛この上ない。

オスカー・ワイルドの一言に笑いを誘われる。
「芸術は自然を模倣しない。自然が芸術を模倣するのだ」
この出来すぎのジョークを笑うことができないチンピラ芸術家。
芸術を定義付けすることが好きで好きでたまらないアマチュア芸術家。
やめよう、チンピラ芸術家を俎上に上げると、歯止めが利かなくなる。

『アインシュタインの天使』 荒俣宏・金子務

(277)

『サイエンス・インポッシブル』 著/ミチオカク_訳/斉藤隆央

(461)

『数学でわかる100のこと』 著/ジョン・D・バロウ_訳/松浦俊輔・小野木明恵

(323)

『美女の骨格 名画に隠された秘密』 宮永美知代

(189)

『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』 著/ピーター・D. ウォード_訳/垂水雄二

(365)

芸術論か、と稽古場から戻り、呟いてみる。
19世紀以来続く無意味な対立がある。
「人生のための芸術」派は、芸術の有効性を盲信し、
「芸術のための芸術」派は、芸術に不信を抱き続け、

芸術を実人生に役立てたいとする欲求と、
芸術を実人生に匹敵するほど刺激的にするという欲求が
互いに絡み合いながら、なにがしかの解答を得ようと、
不毛な無意味な議論を交わしながら、現代にも、

芸術論、という、論が、一人、自立しているように錯覚させる。

芸術論、なんか、あるか。ばかめ!
芸術は、それが、あるか、ないか、の、どちらかだ。それ以外にはない。
実人生と芸術を同値において、そこになにか意味や意義を見出すことは、
無意味かつ不毛の限りだ。
実人生=芸術、という概念があるのも知っているけれども、だ。

言い切るならば、実人生において芸術は、意味を成さず、
芸術において、実人生に意味をもたせることはできない。
正確には、やはり、一言しかない。

芸術は、あるか、ないか。
そのどちらか以外には、ない。

と、稽古場で思い、帰り道、メメント・モリ、と呟いて、
バカらしい、と玄関の鍵を開けた。