●1330●『ヴィヨンの妻』『晩年』『パンドラの匣』『きりぎりす』

2009年12月3日 22:27:49



ここ最近太宰を読んでいた。
急に読みたくなった。12月になったからか、何かを求め始めているのか、
或はまた何かを捨てようとしているのか、それともまた一つ何かを失ったからか。
多分、その全部だからだろう。
文庫本を何冊も鞄に入れて、あちこちで太宰を読んでいた。
年に一回はこんな周期がある。

いつも、

『人間失格』から読み始めるのだけれども、
今回は、『ヴィヨンの妻』から。どうして『ヴィヨンの妻』から手にしたのか、
読み終えて、自身理解した。

そうだ。

確かにぼくは、新しい倫理を求めている。
だから、『ヴィヨンの妻』を貪ったんだ。
自身エゴイストながらエゴイズムを憎悪し、生活の全てを憎悪し、
芸術への飽くなき憧憬に翼を広げ、けれども現実の生活がストーカーのようにつきまとい、
エゴイズムも生活も現実も理想もやさしさもネットワークも、
男というものも女という生き物も、金も思想も、
全てが平等に成り立つ新しい倫理があるはずだ、と思っている。
全てが相反矛盾しながらも、全部、

成り立つ、そんな、新しい、考え方、

この頭の中にはきちんと構築されている。
構築されているけれども、その最下部でその全てを支えている土台は、
ぼくのエゴイズムだ。それもわかっている。何が悪い、と開き直りながら、
ウルトラエゴイズムと、何度も口にしたら、今日は、雨。

かつて、エゴイスティック・サロンという演劇集団に参加していた。
脚本を書いたり、作曲をしたり、していた。
本田圭、という一人の男がその集団を率い、演出をしていた。
二人で「劇団をつくろう」と盛り上がり、打ち合わせに打ち合わせを重ねていた。
毎日会い、コーヒーを飲みながら話をした。
今思うと、劇団設立・劇団運営・劇団会計という、一番重要な具体的なことを話し合った覚えはない。

こんな芝居をやりたいね、
こんな集団にしたいんだよ、
こんな本を書きたいんだ、
こんなことをやってみたいんだ、
あの俳優とつくりたい、
あの劇場でやりたい、
あのスタッフにやってもらおう、

そんなことばかりを話していた。集団の名前はどうする? と数日二人で考えた。
ぼくは昔から、その方向性の思考があまりない。
脚本のタイトルさえ、つけられない。便宜上タイトルをつけるけれども、嫌で仕方ない。
ましてや劇団名など考えられるはずがない。
二人でアイデアを出し合おう、と話していた。

ある日の真夜中、3時頃だったか。
本田君から電話があった。そんな時間の電話だ。ただ事じゃないと、思った。
訃報か、と確か、思ったはずだ。

「高木さん、劇団名、いいのを思いつきました」

本田君が電話線のない電話の向うで、嬉しそうな声をあげた。

「エゴイスティック・サロン、略して、エゴ・サロ。いいでしょう!」

賛同して、数時間後にいつものところで会った。
そうして、二人で話を始めた劇団設立は、
「エゴイスティック・サロン」という名前をもち、名前を持ったら、具体的なことが浮上し、
面倒なことが多くなりながら、

「凄いことやりましょう」と、中目黒あたりを二人でふらふらしていた。

いろんなことがあった。
本田君は、「エゴイスティック」という言葉に、
今ぼくが思っている新しい倫理を思っていたのだろうか。
本田君のことだ。こんなことはとっくに気が付いていただろう。
ぼくが数年かけておっちらおっちらと言葉を積み上げながら構築しているウルトラエゴイズム。
そんな概念を本田君は、一瞬で見、あの頃から笑い飛ばしていたのかもしれない。
だから、そんな劇団名を思いついたのだろう。
ようやく、追いついた、そんな気がする。

雨か、二人で歩いた中目黒も、多分、雨だろう。
そういえば、劇団再生の最初の公演は、中目黒だった。
当時、中目黒に事務所があった。
駅徒歩数十秒。
毎朝そこに出向いた。二人で鍵を開け、事務所の窓際の応接。
山手通りに面したその席で、コーヒーを飲みながら、
専用稽古場を探したり、脚本を書いたり、企画書を書いたり、
ああだこうだを話したり、
午後になると、専用稽古場を探しに東京中を歩き回った。
不動産屋を訪ね、あちこちの物件を見、歩きながら、「凄い劇団」の話ばかりしていた。

エゴイスティック、か、雨が降る。
太宰ばかり読んでいた。12月になったからか、それとも感傷癖が飛び出てきたか。
エゴイスティックか、真夜中が近付く。
太宰ばかり読んでいた数日だった。
何かを捨てようとしているのか、また何か一つ失ったからか。
それとも、涙もろくなったからか。

太宰の新しい倫理。

太宰は、ただちゃんと生活したかっただけなんだ。

『ヴィヨンの妻』太宰治

(206)

『晩年』太宰治

(407)

『パンドラの匣』太宰治

(351)

『きりぎりす』太宰治

(366)

ちゃんと生活したい。
ぼくもそう思う。ちゃんとしようとすればするほど、ちゃんとしない生活になっていく。
なんでだろ、と考える。答えははっきりとしている。
はっきりとしているけれども修正不能。
可能限界を超えている。

新しい倫理、ウルトラエゴイズム。