『記号の歴史』【「知の再発見」双書39】・『ローマ教皇』【「知の再発見」双書64】・『ヨーロッパ庭園物語』【「知の再発見」双書83】

2010年1月29日 23:14:32



資料にあたり続けている。
読書とは何か、その一般解を導こうと資料にあたり続けている。
読書という個人の感覚がその大勢を占める行為に対して、一般化を試みている。
個人の感覚や情感がその行為を大きく左右する事柄に対して、
一般化を試みることは、一つの意義あることだと信じては、いる。
けれども、難しい。大変だ。できるかどうかわからない。

これまでに当たった資料全てがやはり、「個人」という特殊の下にあり、
それらから「一般化」を引き出すことはまだできないでいる。
どれほどの例証をサイトすればいいのだろうか。それさえもわからない。
ただ、手当たり次第に資料にあたる。

読書とは何か。

そんなことを考えずにただ面白い本を読んでいればいいのかもしれない。
大人しく目の前の本を楽しく読んでいけばいいのかもしれない。
だが、答えが欲しい、と叫んでいる、誰かがいる。

『記号の歴史』【「知の再発見」双書39】ジョルジュ ジャン
『ローマ教皇』【「知の再発見」双書64】フランチェスコ シオヴァロ
『ヨーロッパ庭園物語』【「知の再発見」双書83】ガブリエーレ ヴァン・ズイレン

「もっと闇を! もっと言葉を!」
と、寺山修司さんは、叫んだ。

世界最初の言葉を見つけてしまった今も、
言葉の千年王国で遊んできた今も、やっぱり、ぼくもそう叫ぶ。

「もっと闇を! もっと言葉を!」

もっと、が何を指すのか。
数なのか、量なのか、質なのか、色なのか、
この年になって、ようやく、「もっと」がわかってきた。

意識して、「もっと」という言葉を使うことがなかった。
「もっと」は曖昧すぎる。特殊すぎる言葉だ。個人の属性に属しすぎる言葉だ。
だから、使うことが少なかった。

でも、ようやく少し、「もっと」が分かってきた。

ヴァンダリズム!

古いギリシアの劇場は野外にあった。
芝居はギリシアやローマ人がもっとも好んだ野外スポーツだった。
古代の神々の暮れ方に劇場は消えていった。
中世に芝居は復活する。
教会の行事としてだ。
それは教会の建物の中で復活した。
そして、ルネッサンス。
教会は劇場でなくなり、芝居専用の劇場ができ、
円形から四角形の設計へと変わり、背景はその壁に直接遠景が描かれ、
近代がやってくる。

ヴァンダリズム!

全ての発展過程をも破壊したい。
0から1への何という隔たり。なんという跳躍。

飛べ!

もっと高く、もっと速く、もっと遠くへ!

飛べ!

ここに書き付けたこれらの全ては、あらためて言う。言葉だ。