『北一輝著作集 (第2巻)』『北一輝論』『北一輝論』『北一輝』

2010年2月19日 00:00:03



こんなに北一輝を読んでいたら、夢にも出てくるってもんだ。
ここ一週間で三回、夢に北一輝が出てきた。うち一回は、大川周明も出演。
おかしなことに北一輝は、いつも押入れから出てくる。
その押入れは、うちの押入れだったり、大きな宴会場にある押入れだったり、
洋風のクローゼットみたいなところだったり。

そこをそっと開けて、北一輝が出てくる。
何回か話をした。

「サウジアラビアに行こうと思ってる」
「中国の次は、サウジ革命に参戦ですか」
「いや、そうじゃない。革命はもういい。革命は夢だ。人類永遠の」
「でも世界には革命が成功した例もあります」
「あれは歴史だ。現実は全て即歴史なんだ」
「それは厳密にはそうですが」
「ぼくはサウジに墓参りに行くんだ」
「誰かお知り合いの方が?」
「いや、そうじゃない。国の墓参りだ」
「国の?」
「サウジアラビアには死んでいった国家のお墓がたくさんあるんだ」
「そうなんですか」
「国家は火葬できない。埋められている」
「はい」
「国家の死に顔を見たことがあるか」
「いいえ」
「どの国もどの国も例外なく疲れた顔をして死んでいく」
「そうなんですか」
「墓参りだ。行こうか」
「わかりました」

こんな会話や、

「誰?」
「北だ」
「あっ、ほんとだ。北一輝だ。こんにちは」
「押入れは寝やすいなあ。押入れの中にお金が降ってくればいいね」
「まあ、そうですね」

そんな会話を憶えている。
演劇を否定している。と、初めて書いてみる。
その否定を一言二言で書きあらわすことは、どうも出来そうにない。
ここ一年くらい想念の表象にあがってくる概念だ。観念と言うべきか。
巨大な否定だ。
その巨大な否定への飛翔は、常に一方向からアプローチさせてはくれない。
様々なルートから、いつのまにかその辺りにたどり着いていく。

「非演劇」ではない。
「不演劇」ではない。
「無演劇」、うん、「無」は近いかな。
やっぱり、「否」だ。

否! 演劇!

その辺りの感覚を論理的にまとめるより、当面北一輝辺りを固めておくか。
と思いながら再読の北一輝。
昔は、この3冊の解説本を面白がって貪り読んだのだけれども、
こうしてあらためて開くと、

どうでもいい。

ちくしょう! 最初からわかってたんだ。
誰かの「論」なんか、なんの役にも立たないんだ。
原典だけを読んでればいい。原典を読んで、自分で感じたことだけが正解だ。
クールダウンだ。ニーチェでも読むか。

『北一輝著作集 (第2巻)』北一輝
『北一輝論』松本健一
『北一輝論』松本清張
『北一輝』渡辺京二

空か、と真夜中、呟いてみる。
ぼくの言葉、と真夜中に呟いてみる。

ぼくの言葉、ぼくの言葉、と何度も真夜中呟いてみる。

ここに来い! と大声で真夜中叫んでみる。
ベランダから、向こうにむかって大声で叫んでみる。

ここに来い! ここに来い!
言葉、お前を道連れに空の真ん中。
言葉、お前の手を引いて連れてってやる。
言葉、お前を連れて空に堕ちる。

真夜中か。