劇評・伊藤正福氏(劇作家・演出家)

2010年4月9日 16:42:44

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右が伊藤正福氏

劇団再生2010年3月公演
『演劇機関説・空の篇』に想う

山影の上方を音もなく滑空するジェット機。標識灯の点滅が美しい。
操縦席ではパイロットが人知れず発狂する――。

寺山修司に、そんな内容の短歌があったと記憶するが、
それと似た余韻に浸るような静謐にしてシュールな気分を味わった。
音のあふれる木さんの舞台だ。
だからこれは贅肉をそぎ落としたかのプロットのシンプルさ、あるいは際立つ象徴性ゆえの印象に違いない。
一貫して演劇の革命を追求してきた木さんの、これは新境地といったところか。
熱い中にもクールな狂気を感じさせる。舞台も客席も、天上も床も境なく、空間全体を覆う白い布。
その布いっぱいに魔よけのように書き連ねられた文字群がまず、度肝を抜く。
ここに入る者はいっさいの形而下を捨てよ、と「言葉の空」が迫る。その空には、こんな行が――

「革命歌の流れる非日常を日常とせよ。血を流す肉体を日常とせよ」

懐かしの檄文だ。前世紀60/70年代大衆反乱の時代の、
アングラ演劇の小劇場やテントに、バリケード封鎖された大学キャンパスに、荒れる街頭に、
さらには戦中軍国ニッポンにつながるワームホールとなったか。
それをルナティック!と呼ぶのは容易い。
けれど「狂気」は、およそ芸術と名のつくすべての作品行為において、
それなくして成り立たないエッセンスそのものではなかったか。

「言葉の空」にダイブせんとするロマンチシズムの極致は、
人間的自然の大いなる叙事詩に昇華せずにはおかないだろう。

さて、夢うつつのうちに閃いたことなどを以下――

隊長は、部下を死に追いやったことへの自責の念、
また作戦を遂行することへの懐疑から出撃命令を出さずにいる。
いや、それどころか敢えて止めようとさえする。
一方、肉親を失い復讐の念に燃えて絶対に落ちないゼロ戦の開発に勤しむエンジニア、
着々と作業を進めていくメカニック、そして飛ぶことが天命と無邪気にその日を待つパイロット、
さらにもうひとり、限界を超えた高空飛行で精神を病んだ元勇者。

いよいよ決行のときが来た。
「攻撃目標は月!」。
もはや戦争の合理から離脱して、月明りに青白く輝く形而上的な疑問符となって彼方に消えゆくのみだ。
彼らだけ逝かせるわけにはいかない。隊長みずからも血を浴び・・・

これは「二・二六事件」のアレゴリーでもあるか。

いずれにせよ、不条理を生きざるをえない者たちにとっては、実存をかけた逸脱こそが救いだ。
「もしもし、もしもし・・・応答せよ」。線の切れた電話の受話器にさかんに呼びかけるメカニック。
「線が切れているからこそ、つながることができるんだ!」と言い切る、
悲しみのパラドクス――大いなる物語への回路には違いない。

この作品はタイトルが示すとおり、戦のシチュエーションを借りた「演劇論」、メタ演劇である。
それでも、あるいはそれゆえに、こんな解読の愉しみも許される気がするが、
芝居の魅力はなんといってもライブにある。
オープニングの音楽の壮麗さはどうだ。
中ほどの「酔いどれ詩人になる前に」のテーマ曲には思わず落涙。
また今回、音全体のまとまりへの気配りが嬉しい。
照明の冴えも職人技だ。音とシンクロして「暗転」はああでなければと。
「非日常」の気を漲らせた、役者さんたちの面構えが美しい。
エンディングで「名前は?」と問われ、本名を名のるときの、ふっと素に戻る一瞬が清々しく、なんともいい。

そして最後に、もう一度言おう。
「言葉の空」――この荒行が劇のモチーフを端的に表して、これ以外の舞台美術はありえないと思わせた、と。

月に向けて飛び立った空の勇士たち、いまごろ、こころ穏やかにランデヴーを楽しんでいるだろうか・・・

(2010年4月7日 イトウ記)

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