『茶の本』『光を止められるか』『江戸のお金の物語』

2011年5月7日 23:21:16



久しぶりに「茶の本」を開いた。読むのは何度目だろう。
驚いた。凄い本じゃないか。これまで何を読んでいたのだろう。
「茶の本」の内容が変わったわけでは決してない。だとすると、ぼくが変わったのか?
あの大きな決断をしたことが、この変化をもたらしたのか。
大きな変化を受け入れようとしているこの心持が読むことも変化させたのか。

ノルマは達成する。当たり前だ。自分で決めたのだから、達成するに決まっている。
だから、ノルマを考えて本を読むことは、ない。ノルマと「本を読むこと」は、実は別なのだ。
ノルマ達成が危ないから、早朝から起きだして読むのではない。読みたいからだ。
そこに本があるからだ。読まねばならないという天の声が聞こえるからだ。天性に従うんだ。

仕事で読む本も多い。読書代行のために読む本。書評を書くために読む本。
対談をするために読む本。資料と言えば資料だが、読み始めたらやっぱりちゃんと読んでしまう。
この「高木ごっこ」にも本のことばかり書いている。読書のことばかりだ。
でもそもそもの始まりは、「劇作家が今日読んだ本」というブログからのスタートだ。
だから、本のことばかりを書いていてもいいだろう。

夏の着物を注文した。どんな仕上がりになるだろう。
ぼくにはまだその完成した、ぼくが着ている、その姿を想像することができないが、
デザイナには、はっきりと見えているようだ。任せるに限る。きっと似合う着物ができてくるだろう。

夏の予定を調整し始めた。さすがに忙しい。とてつもなく忙しくなるだろう。
見沢知廉の七回忌法要。そして、追悼公演。ぼちぼちと準備に入っているが、こなすことが多すぎる。
見沢知廉七回忌、という大きなビジョン・プラン・演出は、全部見えている。
見えているからあまり心配もしていないが、具体的に詰めなきゃならないことは、ある。

追悼公演も、もうできている。頭の中にははっきりと画が、ある。
だからといって、脚本がいらないわけではない。脚本はいるだろう。
こんなにはっきりとわかっているのだから、脚本は不要な気もしているが、そんな訳にはいかんか。
そして、演出だって決まったこと。そこにいれば、誰でもそうする、という方法だ。
演出家だっていらないかもしれない。
必要なのは、必殺光線を持っている照明家と驚異の指先を持っている音響家と俳優の自負と矜持。

今年、44歳を迎える。
見沢さんの年まであと2年。寺山さんの年まであと3年。さあ、その年を笑い飛ばせるだろうか。
笑い飛ばせないなら、背中の翼でどこかへ飛べるだろうか。

冬の着物に風を通した。新しい防虫剤を用意した。たくさんの冬の表情を思い出した。
今年の冬は、一つの実験をした。
冬の事を「夏」と言い換えていた。もちろん一人でだ。今年の冬は、と思うことを、
今年の夏は、と言い換えて思っていた。なかなか難しい。冬、と言うと、やっぱり、冬を思う。
夏、と言うと、やっぱり、夏を思う。それほどのイメージの固定は、ある種の暴力だと結論した。

ぼくにはぼくの冬があるはずなのに
ぼくにはぼくの夏があるはずなのに

その実験は、なかなかうまくいかなかった。難しい。あえてやろうすれば、あえてやっている感じになる。
今年の夏も、実験を継続する。夏を、冬と、言い換える実験だ。どうなることか。
注文した夏の着物。その反物を手にしたとき感じたのは、死だ。そして、詩だ。

いくつもの原稿を書いた。
いくつもの映画を観た。
いくつもの行動をした。
いくつもの出来事を現象した。

『茶の本』岡倉覚三
『光を止められるか』米谷民明
『江戸のお金の物語』鈴木浩三

短歌を一首詠んで、冬の終わりを知った。