『神の裁きと訣別するため』『腕貫探偵』『腕貫探偵、残業中』『おさがしの本は』『天才たちの値段』『黒豹ゴリラ』『黒豹皆殺し』『黒豹列島』『歴史としての新左翼』

2011年12月14日 23:29:46



読書というものに傾倒しなければ、もっと楽に生きられたかもしれない。
読書という毒にあてられて、その毒は長い時間をかけて治癒するどころか、
ゆっくりゆっくりと時間をかけて全身をくまなく冒していく。
そして、読書はその体内で見つけるんだ。「自分」という真っ黒の毒を。

もっともこれは一般論だ。ぼくがそうだ、というのでは、ない。
そうなったら嫌だな、と思いながら、しかし、読書の毒気というものをいつも背後に感じては、いる。
読書の毒気。それは、まともな人生を棒に振るほどの強い毒気だ。

『劇的読書会』というものを主宰したり、
『読書劇』というものを企画したりしながら言うのもあれだが、読書の深間は地獄だ。
まさに地獄だ。気が付けば両足の膝までつかりきり、片足を抜こうとすれば、
別の片足がもっと深間にはまり込み、あわてて抜こうとすればバランスを崩し、両手をつく。
両の手はなんの抵抗もなくその真っ黒の深間にはまりこみ、そしたら、顔はすぐそこだ。

読書の中でもがけばもがくほど、両手両足をからめ捕られ、
ならばやめた! とページを繰る手を投げ出せば、じわりじわりと毒気が回る。
どうすりゃいいんだ! くそったれ! 毒を喰らわば皿までと言葉を喰らい本を喰らう。

読みながら真っ黒のその想念と戦っている。
これは、自分の話だ。まだその毒に冒されちゃいない。ぎりぎりのところで抵抗している。
毒のまわるにまかせてみるのも一興と、そう思うもどうやらまだまだ世間が恋しいらしい。
俗物め! 太宰を真似て自分に毒づいたところで、それはやっぱり変わらない。
まったく俗物だ。だが、そう言いながら太宰も俗物に甘んじたではないか。

以前、ぼくのことを「日本のアルトー」だと評してくれた方がいた。
気恥ずかしく、なんとも身の置き所のない、もぞもぞとした感じがした。
アルトーか、と思い立ち、一冊を読み直してみた。アルトーは、
「一種の」でも「ある種の」でも「時代の」でもなく、まさに天才だ。
アルトーとぼくが並ぶはずもない。比べられる土俵に立てるはずがない。天才には土俵が存在しない。

時代。時代が書かせた本というもは確かに、ある。
その時代でなければ生まれなかった小説、思想、言葉。それは厳に存在する。
時代が変わればそれらは一般化されることなく忘れ去られていく。しかし、そうではないものもある。
一時代が作者の瞬間に切り取られ、切り取られた瞬間に普遍を奪取するんだろう。
その作者の瞬間こそが常に問題であり、その問題は国境も時代も問題としない。

切り取る、という手法において、それは演劇も読書も執筆も思考も、
いや、やめよう。ここから先を書けば筆がすべることがわかっている。すべりすぎる。

いけるところまで行ってみるか。こんな体だ。人間だ。いずれ限界があるだろう。
次の目標は、年間700冊。700冊を突破してみたい。一日2冊。可能だろうか。
仕事をしながらのそれはきっと困難だ。それでも挑戦してみたい。
やれるところまではやってみようか。いずれ限界があるんだろう。

『神の裁きと訣別するため』アントナン・アルトー
『腕貫探偵』西澤 保彦
『腕貫探偵、残業中』西澤 保彦
『おさがしの本は』門井 慶喜
『天才たちの値段』門井 慶喜
『黒豹ゴリラ』門田 泰明
『黒豹皆殺し』門田 泰明
『黒豹列島』門田 泰明
『歴史としての新左翼』高沢 皓司