見沢知廉の目を通して

2016年1月28日 22:39:16

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見沢さんが遺したもの

見沢さんが書き遺したいくつもの小説をぼくたちは今、いつでも読むことができる。

何万ものそんな言葉を通して、ぼくたちは亡き人と対話をする。

手紙、写真、メール、記憶、思い出、なんかそんなものでぼくたちは逝きし世と対話を交わす。

小説も言葉、手紙も写真もメールも言葉、記憶も思い出も言葉。

そういえば、記憶と思い出の違いは何か? という設問を小説の中で読んだことがある。その小説では、こう解釈していた。

「思い出は全部記憶しているけど、記憶は全部は思い出せない」と。

他にも解釈のしようがあるだろう。

ぼくたちは、常に言葉で交流する。言葉以外で交わされるものがあるだろうか?

目くばせ? いいえ、それも言葉です。

表情? いいえ、それも言葉です。

身振り? いいえ、それも言葉です。

ぼくたちは、言葉以外の方法で存在することができないのだ

写真は、見沢知廉さんの没後10年・高橋京子三回忌法要の時のものだ。

写っている三人。

左から、高木、設樂秀行さん、大浦信行監督。

三人とも、髭をたくわえ、決して良くはない眼つきで、煙草を楽しむ。

そして、三人とも、見沢さんに連れられてきた。

生前の見沢さんだったり、死後の見沢さんだったりするのだが、三人とも見沢さんが遺した、言葉。

こうして三人が集まる機会はあまりないのだが、いつ会っても煙草をくわえ、火を点け、うまそうに煙を吐き出す。煙草をかっこよく吸うには年季がいるのだ、ということが目の当たり。

ぼくは、自然にかっこよく煙草を吸う人を無条件に信じ、好きになったりするのだが、彼らはまさにそうだった。

もちろん、年齢はぼくよりも上の先輩方なのだが、そんな年齢差は全然感じない。感じさせるような態度をとるかっこ悪い人たちではないのだ。きっと彼らもぼくに対して年齢を感じたことはないだろう。

数か月前の法要後のワンシーン。今でもはっきりと覚えている。

この喫煙所ににこにこと集まって、煙草を一本抜き、口にくわえる。そしてライターで火を点け、秋に向かって長々と煙を吐き出す。二人のその姿は、あまりに自然でそして、かっこよかったのだ。

流れ去る煙もそんなかっこよさを知ってか、名残惜しげに秋にしがみついていた。

吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

稽古を終えて、帰宅。部屋着に着替えて一服付ける。

吸いさしの煙草、立ち上る煙。

そっと西を指してみる。西は暗いだろうか。望郷なるだろうか。

何十年も言葉の事を考え続け、ようやく声という現象に考えが及ぶようになった。親父の声をもう聴くことはできないのに、なぜ聞こえるのだろうか?

それが記憶だの思い出だのならば、やはり言葉によってしか、死者を死者足らしめることはできないのだ。この煙草の煙も言葉。そして、立ち上る一筋の煙も言葉。そっと西に向けて差し出すこの吸いさしの煙草も言葉。

声という現象

言葉以上に複雑な思考性をもつ声という現象

 

 

一本の煙草がこうして時間も空間もバインドする。