あれにもこれにも背を向けて

2016年8月18日 00:43:38

写真 5

何故人は他者に何かを望むのだろう?

何故関係しようとするのだろう?

何故繋がろうとするんだろう?

彼は虚体を求めているとはっきりと言い切った。マクベスの魔女は、きれは汚いという、というのを見ている。不可能なところを覗く。文学ではそれが可能だ。スヴィドリガイロフが幽霊を見ているように。演劇という方法じゃ不可能なの? と創ってみたのが「暗室の窃視者」なのだが、どうにも伝わらなかったようだ。鑑賞者にも関係者にも。言葉屋という概念を創造してみたりしたが、ぼく自身が言葉屋たり得なかったのだろう。制限時間内いっぱいに言葉を尽くしたつもりだが。そしてまた過不足なく書いたつもりだったが。あの「暗室の窃視者」が今になって跳ね返ってくる。ピンボールさ、ただ、跳ねてるだけ、か。20代ならそれもバネにできたが、この年では案外重たいボディブローのようにじわりとしたダメージを夜に残す。まあ、別にどうでもいいが、と言えるほどの言葉屋ではないし。さて、じゃあ、まあ、他の道から、と迂回するほどの時間もないか。理解してほしい、と言ってるわけじゃなく、そこんところはどうでもいい部分で、そうではなく、関係したい訳でもなく、分かり合いたいわけでもなく、簡単に言えば、あんたをぶっ飛ばしたいだけなんだ。何故と言って、嫌いだからなんだけど、さ。「暗室の窃視者」の中でぼくは一つの宣言をしているのだが、数年たってようやくそうなっていることに気が付いた。パスカルが「パンセ」の中で、「無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間」という言い方をしているが、それが言葉屋の本体であり、彼は、自分がそこから引き出されてきた虚無も、彼がその中へ呑み込まれている無限をも等しくみることができないのだ。つまるところ、やっぱり一人でしか創ることはできないという当たり前のことを思いながら。機関の発動、それは、まさしく何かを創りだす根源の動機であり、生の発動でなければならいのだが、さて。例えば、跳ねているだけのピンボールがある一機関の原動力にならないか。跳ねることによって発電し、跳ねて移動することでピストンを動かす。跳ねているだけ、跳ねているだけ。

なあ、コトバさん。

 

こんな話をいつもしてたな。