雑感

2018年7月30日 13:47:09

『猶予された者たち』(原作/エリアス・カネッティ)

作品の発表を終えた。いろいろなことを考えた作品だった。

作品に対して考えたのではない。作品に対しては、創りはじめる前から一定の予測と道筋は見えていた。

作品に、ではなく、作品を創る、という事に対して。

時代が、変わっていくことが、目の前を時代が、通り過ぎてゆくことが、ありありと、まざまざと、見えた。

この作品のセリフにもあったが、

ぼくは、過ぎ去ってゆく時間を気にしたことはなく、これから来る時間を心配したこともない。

本当に、喜々として数十年を過ごしてきた。

50歳。

そして、今年、ぼくは、51になった。

 

 

 

作品を発表するとは、何か。

これが、そもそもの問題なのか。今、書きながら、わかった。

10余年前、劇団再生が立ち上がった時、常に、それだけを問題にしてきた。

作品を発表するとは、何か。

それは、人前に立つことではない。友人や恋人や見ず知らずの他人にそれを見せることではない。

かっこつけることではない。汚れることではない。疲れることでもなく、立ち止まることでもなく、

目を凝らすことでもなく、叫ぶことでもなく、静かに瞑目することでもなく、ただ、在ることなのだ。

作品は、そこに「在る」

 

ただ、それを、目指していた。

創るのではなく、在るのだ。

 

今もそれは変わらない。変わらないが故に、次第に大きな差となっていくのだろう。

感傷に浸っているのではない。

新たに戦うべき敵を見つけただけだ。戦うべき、憎むべき相手を見つけただけだ。

 

 

相変わらずの中二病かなあ。

 

とはいえ、憎むにしても、憎み切れない。

ろくでなしめ!

 

公演を終え、会場を後にし、スタッフの連絡を待ちながら、ベッドに体を横たえ、天井の丸いわっかを数えてみた。

何度数えても同じ数。わっかは、僕が数えようが数えまいが、30年前からそこにあるのだ。見事としか言えない、作品。

ぽつりぽつりとラインやメールが入る。一つずつ、心配が減っていく。

誰か、と、話したいと思ったりする。甘えだ。一人でいるべきだ。でもちょっとメールしてみるかな、と思ったり。

いやいや、甘えるな。作品はそこに置いてきたはずだ。捨ててきたはずだ。所有権を放棄したのだ。

天井のわっかをもう一度数えてみるか。変わるはずがないが。

 

今、誰かと話せば、ぼくは必ず弱ってしまうのだ。甘えてしまう。かっこつけてしまう。

 

まあ、いいや。どこかに帰るか。