『オルカをめぐる冒険』水口博也

2008年3月4日 22:37:01

写真

親父と鰯漁に出た。
日が昇る前の真っ暗な日本海。
揚げたイワシの鮮度を保つための氷をたっぷりと積み込み、
力強いエンジンを叩き起こす。

長州は長門。
湾口から日本海に抜ける。
月明かり。
網を上げる。
大漁だ。
海面に鰯の銀が踊る。
その生命に満ち満ちた無数の音。

親父と二人、網を上げ、
大漁の喜びを言葉にすることもなく、
二人、煙草に火をつけた。

帰りの船足は遅い。
船腹に抱え込んだ鰯という鰯。
コーヒーを飲もうと、船室に戻る。
船室とはいえ、大人3人がはいればいっぱいの小ささ。
波に揺れる、小さな漁船。

船室に戻ると、
秩父宮様が、そこに・・・

そんな夢を見て、起きた。
起きて、仕事をした。
友人が九州に里帰りした、そのお土産をいただいた。
三笠山という、銘菓。

秩父宮様に三笠宮様。

『オルカをめぐる冒険』
水口博也

先日、友人T君(辻慎之介)。

「タカキさん、シャチってすげーんすよ!」
「シャチですよ!シャチ」

と、騒いでいた。
自分が何かにぶつかりそうになると、

「シャチなら、超音波でよけてますね!」
「難しい本ばっかり読んでたら、頭おかしくなりますよ!」
「これ読んでください!」
「シャチすげーんすから!」

著者の25年に及ぶ研究と追跡。
多くの写真が物語る著者の愛情。
シャチの生態。

シャチの家族。
おばあさんシャチに孫のシャチ。

アラスカ・ノルウェー・南極・・・
執拗にシャチを追い続け、観察し続ける。

観察と言う概念を考えざるを得ない。
自然を観察した時点でそれは自然ではなくなる、
と、ソクラテスだったか。
観察者と対象。

対象が完全な自然であるには、
観察者の存在は完全に否定される。
では、自然を完全な形で観察するにはどうするか、

と、22歳の頃、夢中になって考えていたことを思い出した。
確かに22歳だった。
ヘーゲルに手を出し、火傷を負ったから、覚えている。
その火傷の傷跡は、今もはっきりと残っている。

友人T君(辻慎之介)が、完全な彼であるためには、
彼を観察する観察者がいる限り、不可能なのだ。
しかし、観察者(それは、接触者と言い換えてもいい)は、
必ずいる。

観察者が居なければ、彼の生命はないのだから。

しかし、

あの火傷から20年を経た今、
完全な「個」を実現できるのではないかと、
形而上で、煙草の火をつける。