『記録の概念』という小論を書こうと思った。

2010年11月17日 22:17:22

『交響劇第二番嬰イ短調』という一本の作品を、終えた。
創ろうと試みたものは全て創った。
しかし、観たいと思った画を全て観ることができたかというと、
決してそうではない。
それはそうだろう。ぼくの頭の中と現実という閉ざされた空間では境界条件が、違う。
そして、ぼくの頭の中に住む住人と現実という閉塞に住む住人では、言葉が、違う。

記録者、が今回も駆けつけてくれた。
プロの写真家である平早勉さんは、海外取材の予定を劇団再生撮影のため急遽変更して来てくれた。
今頃は、遠く海の向こうでシャッタを切っているだろう。

その巨漢からは計り知れない繊細を住むツカムラケイタさんも来てくれた。
そう、彼の眼は、繊細だ。
小さな光になればなるほど、一枚の絵に寂しさを宿らせる。
いつも思う。あの眼に宿る寂しさが記録を一つの概念たらしめるのだ。

記録者、それは或いは標的者と同義かもしれない。

熱にうなされ、押さえつけられたように動かない体で記録された画を眺める。
記録全てが厳然と且つ厳密に過去のものだ。
その過去という時間と向き合う夜。
そこで向き合うのは、やはり記録者そのものだ。
記録されたものは、記録されたもので、記録した者は、過去ではない。

記録者、それはある種の予言を語るものかもしれない。

常に過去を残すものは、未来という場所に立脚しているのだろう。
そうでなければ、過去を残すことはできないはずだ。

未来のあなたを
未来の寂しさを
未来の光を
未来の希望を
未来の絶望を

そこに観ているのかもしれない。

【撮影・ツカムラケイタ】