じっと前を見据え、何を思う

2011年3月27日 22:19:45

写真

一枚の浴衣のデザインに心を動かされる。
いくつかのモチーフが精緻に配され、驚くほど緻密な手作業で型が抜かれ、染められる。

そのデザインは、ぼくを予言した。

いや、もしかしたら、そのデザインは預言かもしれない。
デザイナは、芝崎るみさん。
彼女の画は、予言だ、と思っている。
いや、もしかしたら、画と言う「言語」を駆使した、預言かもしれない。
予言か、預言か、それをここで結論付けることは野暮だろう。

ただ、そのデザインが豊かな言語性をもち、見る者に、
そして、その一枚を纏う者に、その「豊かな言語性」で語りかけてくる。
語られる内容は、見る者纏う者それぞれに違うはずだ。
違うが、確実な、予言をし、預言を与える。

先日、新宿伊勢丹で芝崎さんに「これです」と見せられた一枚の画。

その一枚の画に、心を動かされた。
豊かな沈黙の中で語られるぼくの半生。或いは、この先のぼくの時間。

恐怖、を感じた。
そりゃそうだろう。一枚の画が、半生を雄弁に語り、この先を予言し、預言を語るのだ。
怖い、と思った。そして、その怖さはどんな種類でどんな属性かを考えていた。
新宿伊勢丹のエスカレータで地上に下りながら、なるほど、そうか、と思い当たった。

神曲だ。ダンテだ。あの三行韻詩だ。地獄煉獄天国の物語だ。
地獄の九圏、煉獄七冠。ぼくはベアトリーチェをを見続けてきたのかもしれない。
おそろしく長い月日と進まない時間の中で、ぼくは永遠の快楽と刹那の快楽を見た。
その両極の狭間で息もできずにあがいている自身の姿。
その姿を描いたのかもしれない、と、一枚の浴衣に恐怖した。

その画、その浴衣もいずれここで紹介することもあるだろう。

預言の浴衣、予言するデザイン。
あまりに心を動かされたので写真に撮り、携帯の待ち受けにした。
携帯の待ち受けにしたら、コトバが「ほっ、ほー」と啼いた。
洗濯をし、夕食の準備をし、時間がもったいないと数分でそれを片付け、北一輝を開く。
「食べる」という恥ずかしい行為に屈辱を覚えながら、
なるほど、「観客を求める行為」と「咀嚼」は同じ恥ずかしさか、と思い当たる。
それなら、よしきた、客のいない演劇を創ってみるか。
思考実験的・論理的・倫理的には、もちろん可能だ。
観客を求める心は当然のように「金銭」或いは、「経済活動」につながる。

画、も、演劇、も、同じだろう。

経済活動という集合の中で、果たして「預言の浴衣」は存在可能だろうか。
換金されるという集合の中で、果たして「無制限の演劇」は存在可能だろうか。
北一輝を読みながら、今年も佐渡に行こうと、改めて思い、
できるならば、東北を周りたいものだと、思った。

新潟から北上し、青森行。
寺山さんに会いたい。太宰に会いたい。安吾に会いたい。
そういえば、ここ最近太宰治を読み込んでいた。太宰の中期の作品群。
昔、太宰の作品を随分と書き写した。その頃のことを思い出した。
書くことの練習のために何作も何作も原稿用紙に書き写した。

太宰の「上手さ」には戦慄すら覚える。
人称形態の違いによる句読点の打ち方、進行形の違いによる文末処理の仕方、
時間の流れ方の違いによる一文脈の長短。太宰の技法について語り始めたらきりがない。
いつか、誰かとそんなことを語り合ってみたいものだ。
コーヒーを飲みながら、技巧的側面の太宰治論。それは楽しい時間だろう。
いつか、誰かと。と言いながら、そんな話に誰か相手になってくれる人がいるだろうか。

誰もいなければ、コトバと真夜中に対話するしかないのか。

なあ、コトバ君、コトバ君、太宰治と寺山さんについて少し話さないか?

「ほっ、ほー」とコトバが啼いた。

芝崎るみさんが描いた画は、ぼくを予言していた。そして、預言している。
ぼくも画が描ければ、きっと画を志していた、言葉はまどろこしい、と芝崎さんと話した。
それを聞いた芝崎さんは、笑いながら、ぼくの似顔絵を描いた。

世界が、どうあれ、ぼくは、ぼくの仕事をするだろう。
世の中が、どうあれ、ぼくは上演を続けるだろう。
世論が、どうあれ、ぼくは、書き続けるだろう。

ぼくはもう明日の約束をしない。だから書ける。ぼくはもう接続しない。だから書ける。
明日という今日、ぼくは、上演をし続け、今日を脚本に書き換える。

真夜中が近づいてくる。
目の前でコトバがまあるい目で世界を睥睨している。
少し、なあ、コトバ君、少し、

話そうか。

いやいや、太宰論でも寺山論でもない。なんでもないことを話したいときもあるんだ。