劇作家・伊藤正福さんのこと

2013年10月5日 18:40:38

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北一輝の墓前で伊藤さんと。佐渡にて

劇作家の伊藤正福さんから劇評をいただいた。
いつも佐渡から駆けつけてこられる。
色つき眼鏡にヒゲ、そして少しアルコールの入ったにこにこ顔で握手を交わす。

再生がロフトで公演していた頃からぼくの作品を観ていただいている。

父のような年齢のはずだが、どうにもそうは思えない。
仲のいい友人であり、きちんと批評してくれる鑑賞者であり、ろくでなしだ。
ろくでなしぶりは、佐渡に行けば堪能できる。

人生の大先輩をろくでなしとはいかがか、と自分でも思うのだが、仕方ない。
ぼく以外の誰かが伊藤さんのことを「ろくでなし」と言ったら、ぼくはそいつをぶっ飛ばすだろう。
という感覚なのだが、どうにもうまく言えない。先輩も後輩もないんだな。

何かの同志であり、
父ほど年齢のはなれた友人であり、
厳しい視線なんだ。

伊藤さんはそうは思ってはいないのかもしれないが、まあ、それはそれ。

そうだ、初めてお会いしたのはロフトだった。

その前に、伊藤さんの書かれた脚本を読ませていただき、そのあまりの人間味に圧倒されたのだった。
(ぼくにはこんな人間は書けない)と思ったものだ。
その脚本は、推敲に推敲が重ねられ、出版された。


『北一輝のための終りなき戯曲 北君イツ立ツカ 返待ツ』
伊藤正福

劇作家の伊藤さんからは、これまでにも劇評をいただいている。


『正義の人びと』

『青春の墓標』

『天皇ごっこ〜蒼白の馬上〜』

『演劇機関説空の篇』

『天皇ごっこ〜調律の帝国〜』

『詞篇・レプリカ少女譚』


『テロならできるぜ』―とめてくれ、おっ母さん!

鳥かごのような狭い檻。
傍らに積み上げられた本の山は朽ちたレンガ塀のようにも見える。
閉じ込められ、身をよじり咆哮する男
――「形而上」を生きた人間のリアルは、それ自体、わかりやすいメタファーのごとしだ。

檻の外に幻視する光景は、さらに痛ましい。

――あれが俺か?俺のほんとうの姿なのか?

男の半身がしゃがみこみ、一冊また一冊と積んでいく。
瓦礫と見紛うおびただしい数の本だ。
崩されても崩されても、やめようとしない。
何かに憑かれたように。

――もういいのよ!

抱き止めようとする母。
だがそこは、死んだ子供の魂が行くという賽の河原だ
――ここで子は親の供養のために石を積み上げて塔を作ろうとするが、
積んでも積んでも鬼が邪魔して壊すのだという。
響き渡る「アヴェマリア」が泣かせる。

「女は存在、男は現象」
――誰が唱えたのか思い出せないが、こんなことばが、ふと浮かぶ。
いつの世にも変わらぬ真理だろう。
(卑近な例で恐縮だが、母に死なれてみるとわかる。
糸の切れた凧の心許なさに、人類は畢竟母系と悟るはずだ。
そしてそのラディカルなポジは、例えば映画化された田中慎也の『共食い』あたりか。
こちらは、母が体を張って男を、字義通り「止める」――躊躇なく、神話的な力強さで。)

さて本作の「現象」たる囚われ人は見沢知廉。
暴走族から新左翼、そして新右翼へ。
果てはリンチ殺人事件を起こして十二年の懲役を食らい、
看守の目を盗んで書き綴った小説『天皇ごっこ』で異色の作家デビュー。
十年後、自宅マンション8階から飛び降りて、転落死した。
肖像写真にみる白皙優男のイメージに似合わず、その経歴はまことに凄まじい。

ドストエフスキーかネチャーエフか。
現代の「悪霊」のごときその生きざまに惹かれ、彼の作品世界と格闘し続けてきた高木さん。
どうやら鳥かごと賽の河原の、寒々とした心象風景に行き着いたようだ。
見沢が逝った46歳という年齢に追い着いた自身の感慨と、あるいは重ね合わせたものか。

このままでは自分も賽の河原へということになりかねない。
石ならぬ本を、そこでも積み上げつづけるのか!と。
――けどね。
手にした本の、どこかのページに書いてなかったか。

「過般申上げし支那の孤児以外に小生には未だ小生の顔を知らずして小生を父と呼び来たれる三人の父なき児があります。
小生は妻と呼びつつある寡婦と此の児等との為に社会改造の急務を学理でなく涙によりて学んだものです。」
(北一輝、上海から帰国した大正九年正月の満川亀太郎宛書簡)

弱き者への慈しみと至高のアガペー。
天然の革命児にとって、ふたつは別物ではない。

「罪悪の世は覆る、――地震のごと」
(北一輝『佐渡中学生諸君に与ふ』明治三十八年十二月)

かくして、またしても「革命」だ!
そしてまたしても幾千幾万の母を悲しませることになるのだろうか。

ともあれ。

「親より先に死んではいけないよね」
公演のあと、こうもらしていた高木さん。
ひとりの男の荒ぶる魂を、今回は少し突き放して「総括」した。
しばらくは旧作の再演をやるという。
ブレイクスルーのための、余裕のコーヒー・ブレイクとならんことを祈るのみ。

*

舞台デザインが出色。
照明も幻想的にして絶妙。
音楽のインパクトは、もはや「高木スタイル」というほかない。
演ずることの熱もよく伝わった(とくに長広舌の熱さはどうだ)。
欲を言えば、全体にもう少しメリハリがあればと思う。
軽やかな戯れや、声と音の繊細なコラージュも味わってみたい。
異化効果など期待して、初音ミクの無機質な合成音なども聴いてみたい気がする。

それもこれもアバンギャルドの醍醐味かと――。

(2013/10/03 マサトミイトウ)

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