コトバ君と交わす会話はなかなかに楽しかったりもする

2009年2月8日 23:20:19

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埴谷雄高は、ロシアソビエト文学全集の栞に
「ロシア文学と私」というタイトルで政治と文学の二律背反性について書いている。
その中で政治の本質を以下のように喝破する。

「(政治の世界は)、
いってみれば、一つの箱をあけてみるとそこに小型の箱が隠されており、
さらにその小型の箱の中により小さな精巧な箱が隠されてはいっているところの
箱根細工といった具合に幾段にも秘密の装置がほどこされていて、
遠い何処かにある筈のはじめの起動装置はとうてい見透すこともできないのであった。」

埴谷雄高は、
政治と文学が相容れないところの一つの魔物だとし、
自身が体験してきた政治活動に対して一種の総括を文学上で行った。
それは、ドストエフスキーにその原型を見たからなのか、
それとも、自身の創意の方向が自然に向かったのか。

どちらにせよ、ドストエフスキーを意識し続けたことは確かだろう。

政治と文学の二律背反性。
それは、東西を越え、今昔を越える普遍なのかもしれない。
政治の起動装置を考えつくし、活動した彼は、その装置を見ることなく、文学に昇華させた。
「死霊」がそれだ。
一番難解な形而上小説とされているけれども、
実は、(政治に限らず)はじめのはじめの起動装置を探し続ける小説、
と読めるのではないか。

どちらにせよ、「埴谷雄高」には、政治が彼の背後を覗い続けたふしがある。

という会話を稽古から帰宅して、コトバと交わした。
ここには、私語する死霊たちがうようよとしている。
最近頻出する彼らは、ただただ夜毎万年筆を握るぼくを憐れみに似た眼差しで見つめる。
うっとうしいことこの上ない。

なあ、コトバ君。

埴谷雄高とドストエフスキーと政治と文学。
コトバ君、コトバ君、もっと話そう。いつまでも話そう。
なあ、なあって、寝るなよ。寝てる場合じゃないんだって。
浮かび続けるぼくの想念を話させてくれよ。
この妄想を話させてくれよ。
これまでの悪事の数々を話させてくれよ。

なあ、なあって、コトバ君。

埴谷雄高の話は楽しかったじゃん。
もっと話そう。

もっと。

ただただ夜毎万年筆のキャップをねじ開けるここに、彷徨う私語する死霊たち。
彼らと正対すると消耗するんだ。
これ以上消耗すると

明日、ピアノが弾けなくなる。

コトバ君、もっと話そう。
もっともっと。