●638●6月/10737●『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』『痴人の愛』

2009年6月30日 23:41:32



なんだかんだと、稽古を中心とした強力なサイクルに計らずも巻き込まれていく。
予定の組み方は当然そうだし、脳みそのスイッチングシステムもそうだ。
体の調整もそうなるし、掃除洗濯炊事買物雑務全てのローテーションがそうなる。

朝、6月のノルマを計算してみたら、ちょっと足らなかった。
読みかけの思想書・全集は、今日中には読み終えそうもない。
慌てて読了できそうな2冊を持ち、出かけた。

夕方、ある劇団で演出をされている方と打ち合わせをした。
その方は、ご自身で脚本も書かれる。
どちらに比重があるかといえば、「演出家」だろう。

ぼくが劇団再生という劇団で、脚本を書いて劇作していることをもちろんしっている。
そして、どんな方法で? と話になった。
方法というのは、具体的な、方法のことだ。
脚本がまずあるのか、脚本どおりにやるのか、演出はまず俳優が演じて見せてからつけるのか、
それとも動きの一つ一つを指示するのか、ダメだしはどうしているのか、
具体的にダメを修正していくのか、それとも俳優自身に任せていくのか、
いろんな話をした。

そういえば、そんな方法、というものを考えたことがないな、と思った。
どの方法が良くて、どの方法はダメなのか、それさえも自身判断できない。
ここ一年とかを振り返ってみる。
どんなんだったかな、と。

思いつくままにやってきたな、としか思えない。
今だってそう。
俳優が混乱するのは承知の上。それでも、この作品はこうとしか創れない。
稽古中に脚本を見ることが少なくなった。見るだけ無駄だ、と思っている。
書いて俳優に渡した脚本は、ただの下敷きテキストと化し、
誰がどの台詞を語るのか、次のシーンは何なのか、そんなこと一切が脚本から離れ去り、
俳優の混乱この上ない。

じゃあ、どうやって創ってるの? 整理がつかないじゃない。と言われた。
そうかもしれないけれども、整理をつける必要を感じないし、
次のシーンは、俳優自身が創ってます、と答えた。

その通りだからだ。
次のシーンは、劇団員自身が創っている。
ぼくに次のシーンを決定する権限は付与されていない。
彼らが一つのシーンを創り、その次に続くべきシーンは必然的且つ自然に現れる。
これから先、これまでに創ったシーンが、俳優の「意思的」に変化をしたら、
次のシーンも丸ごと変わらざるを得ないだろう。

一日少しずつシーンが進む。
明日は、このシーンをやろう、と考えることができない。
一つのシーンができれば、次のシーンがやってくる。俳優自身が連れてくる。
ここまで脚本から離れた経験は、もちろんない。
これが正しいのか間違っているのか、その判断さえ放棄しいる。
稽古場で脚本を見ずに、彼らを見る。

続く台詞を追加していく。
その場で台詞を追加していく。

劇団員自身が生き切ることが、方法の全てだ。
稽古場の数時間、彼らを見続ける。

自分が上達することを恐れてはいないか。
自分が自分であることを確認する勇気を持っているか。
今日、今、ここに居る事の不安と歓喜をわかっているか。その奇跡を感じているか。
自分が解放されることの畏れと恐れを克服しようとしているか。
リヴァイアサンへの徒手空拳に絶望していないか。
ぼくは、彼らを見るだけだ。作品は一瞬一瞬の彼らが連れてくる。

今月はどうにかこうにかノルマを達成。
鈴木さんからたくさんの本が届いた。山積みだ。本をよけて歩かなければならないくらいだ。
実際に夜中に起きてトイレに立つと、本の山に躓く。本が散乱する。
ぶつけた足の小指は痛いし、目覚めの惨状にはうんざりする。
今日また一山、本が積まれた。

稽古が終わって数時間すると、演出助手のころ君(市川未来)が
整理され順番どおりになった脚本をアップしてくれる。毎回毎回大変だな、と思う。
脚本を書いているのは、ころ君ではないのか、と錯覚するくらいだ。

一般概念からはかけ離れてはいるけれども、これぞ脚本。
今夜も真夜中。

『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』

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『痴人の愛』谷崎潤一郎

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