甘え、すりより、覗き込み、コトバと、言葉と一緒に、本を読む

2010年7月9日 16:40:47

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ベッドにもたれかかり、日がな一日本を読む。
見沢さんが遺した本や、本能が求める本、
思考途上につき探し求めた本という本。

それにしても、だ。本ばかりを読んでいる。
もちろん、
ノルマを設定しているのでそれを達成することが一つの目的ではある。

けれども、
普段、あまりノルマを意識することはない。
当たり前のように一日一冊は読み終える。
一日ひっくり返る時間があれば、4冊5冊は、読む。

もう嫌だ! と目の奥から悲鳴が聞こえてくる。
そりゃそうだ、一日12時間近くも読書をすれば、目も嫌がるだろう。
そうすると、目の焦点は、本以外には合わなくなる。

読書、読書、と読書。

本を読むことに価値を見出さない人もたくさんいる。
読書に対して否定の声をあげる人もいるだろう。当然だ。
あちこちで、本を読むといいよ、とすすめたりもするが、ただのあいさつだ。
本気で薦められることでもない。

読む人は、読むだろう。
読まない人は、何を言ったところで、読みやしない。
前は、案外本気で読書をすすめたりもした。

読んで欲しい、と思い、薦めたりもしたけれども、
本人に読む気がないんじゃしょうがない。
時間がない、忙しい、すぐ眠くなる、面白くない、ほかに楽しいことが、と
理由を並べられると、何も言えない。
それらの理由を覆すほどの情熱は、ぼくには、ない。
そうして、熱は冷めていく。失望へと冷めていく。

この「高木ごっこ」で、
もう数年にわたり「読書論」を展開してきた。
そりゃそうだ、ずっとそれを考えてきたんだから。

本を読み続け、
脚本を書き続け、
演劇にしがみつき、

ようやく、ぼくだけの言葉を手に入れたりした。
その言葉は、そのままぼくの読書へと繋がる。
ぼくは、本に書かれた言葉を読んでいくけれども、
そこには常に、

ぼくの言葉がある。
言葉と一緒に本を読んでいる。
言葉といつも繋がっている感覚に官能を覚えながら、

多くの失望を過去にし、本を読む。
読書をするぼくのおなかの上に、コトバが甘えにやってきた。
ぼくを見上げ、「にゃあ、にゃあ」と甘えた声をだす。

コトバ、お前も読むか、と声をかけると、
おなかの上から飛び立っていった。

(ああ、なるほど)と、一つの「読書論」に解決を見た最近。
それをまた止揚するか。

考え続けてきた「読書論」に解決を見たのは確かに、
ぼくが、ぼくだけの言葉を手に入れたからだ。
それとともに、多くの時間を過去にしたからだ。
なんにせよ、ぼくはこれからも本を読むだろう。
言葉と共に一人で本を読み、淡々とここに記録を続ける。
読書を薦めることは、もうないだろう。