大浦信行監督・映画『天皇ごっこ・見沢知廉 たった一人の革命』

2010年8月21日 14:15:23

写真

大浦信行監督・映画『天皇ごっこ・見沢知廉 たった一人の革命』
その予告編が届いた。
丁寧に梱包された包みを開けると、一枚のDVD。
そこには、監督独特の絵画的な文字で、そのタイトルが記されていた。

明後日に迫った劇団再生の企画公演『見沢知廉・男・46歳・小説家』第一部を飾る映像だ。
プレイヤにセットし、一人その予告映像に魅入る。
喚起力をあからさまに持った映像。
そうだ、大浦監督と出会ったのは、東中野の劇場だった。

当時の「高木ごっこ」を読んでみた。


『9.11-8.15日本心中』監督/大浦信行

恐ろしいほどの喚起力・・・

言葉と映像が引き起こす恐怖。
これは、テロだ・・・
これこそが、テロルの本質だ。
一枚、一枚、また一枚と映像の中で監督が仮面を剥いでいく。
日本の仮面を、秩序の仮面を、希望の仮面を。

これは、テロだ。

登場する人物が語る言葉の背景をトレースする間もなく、
その背景が自分になだれ込んでくる、暴力。
静かに静かに自分の痛みを確認させられる。

見終えて数日がたち、

手元にチラシとパンフレットがある。
それを見ることすらためらわれる。
何故か、

何故か、
それは、
この映画が、新しい秩序を啓示しているからなのだと、
今日、不意に思った。
新しい秩序。
それは、この日本に定着しそうになかった、
個と全体の間をただよう実存の証明。

そうか・・・
その証明を目の当たりに見せられた故の恐怖か・・・

もう三年以上前か。
その日、劇場を出、近くの居酒屋で監督と見沢知廉の話をしたんだ。
劇団再生が動き出し、
その年の九月に三回忌公演『天皇ごっこ〜母と息子の囚人狂時代〜』を予定していた。
その舞台の話をした。

俳優は、全員女ですよ。
見沢知廉も女でやります。
見沢知廉は、4人出てきます。
衣装は真っ白のロリータですよ。
ところどころに赤を配置して、日の丸をイメージしようかと思います。
巨大な日の丸が欲しいですね。
取材は、人よりも作品から取材したいと思っています。

そんな話をした東中野。
そこからの大浦監督とのお付き合い。
いろいろな場所で話し、映画の撮影を見学させていただいたり、
夜を徹して芸術の話を交わしたり、

そうだ、映画の撮影は楽しかった。
「高木ごっこ」昨年8月の記事にはこうある。


大浦信行監督が撮っている映画の撮影現場を
うろちょろとしていた。

空き時間に大浦監督とたくさん話をした。
お互いおしゃべりといえばおしゃべりだ。

そして、そのおしゃべりのお互いが、
それぞれの仮説を積み上げながら、お互いを確認していく。

それは、芸術性への仮説であり、表現性への仮説であり、
一幅の画への仮説であり、作品を創るということの仮説であり。

大浦監督と話すといつもそうだ。
楽しくなってくる。言葉が近い。

本当の画がある。あるから、創る。曲げられない。
(ぼくは、間違っているのだろうか)と、思う隙のない画がある。

大浦監督の創る画が、(おこがましくも言わせてもらえれば)
わかる。本当だ。

そして、ぼくにも画がある。譲れない画がある。
あるから、創る。あるから、ここにいる。

撮影の現場は、それを捜し求め、静かに静かに
発狂していた。狂わねば撮れないんだ。

本当の画は、監督の頭の中に居座り、
ぼくの頭の中にどっかりと居座り、

それは、理由のない、そして根拠を示すことのできない
本当の画で、

理由がなく、根拠を示すことができないからこそ
本当の画で、

こんな夜か。
発狂しているのは、ぼくだ。

破壊せよ、と声が聞こえる。

大浦監督から、その最新映画『天皇ごっこ・見沢知廉 たった一人の革命』の予告映像が届いた。
真夜中、一人、何度もそれを見た。落涙し、その理由を探した。
その理由はわかった。分かったけれども、ここに書くことでもない。

映画の予告編、という言い方はとても相応しくない。
一本の短編映画だ。あさって、初めて公開される。