『孔雀狂想曲』『狐罠』『暁英 贋説・鹿鳴館』『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』『顔のないテロリスト』『泳げ、唐獅子牡丹』『翔けろ、唐獅子牡丹』『浜村渚の計算ノート』『双月高校、クイズ日和』『防衛医大の場合は―ドキュメント医療裁判』『ギリシャ哲学の対話力』

2012年1月5日 23:43:31



なんだかんだと休みなく動き回っている。
二日間、カンヅメで舞台美術を作っていたり、受注した読書の本を探し回ったり、
新年会があったり、対談があったり、自宅で原稿を書いていたり、あっちこっちあれこれと。

もちろん読書は読書で時間を決めて読んでいる。眺めてみると軽い本が多いけれど、まあそれはそれ。
帰省から戻って来た友人からお土産を頂いたり、着物関係の方からいいものを頂いたり、
嬉しいことも楽しいこともたくさんある正月だ。

頂いた年賀状を眺めている。たくさんの年賀状。
一枚一枚見ていると、演劇関係者が少ないことに気が付いた。
演劇をぼくのフィールドとしながら、演劇関係者があまりに少ない。

来年は、きっともっと少なくなるだろう。ぼくのフィールドは、荒野だ。荒野だ。
ぼくは、ぼくの足でその荒野を進む。
ぼくの足で進むためにはどうしても排除せねばならないことがある。

その排除に対して、これまではどうしても遠慮があった。付き合いや慣れ合いがあった。
上下関係があった。義理があった。だから、排除することに対して、勇気がなかった。
そのことに対して口だけだった。曖昧だった。

義理や付き合いや上下関係や慣れ合いや友情。それは、とても大切だと思う。
当たり前だ。それらをことごとく否定しやしない。素晴らしい「関係性」だと思う。
それらが、演劇を作って来たとも言える。それらが、舞台を創って来たとも言える。

そして、それら「集団的」或いは「関係性的」な創造表現は、大きな弊害ももたらした。
それが、今だ。現在の包括的な劇場ビジネスだ。その包括性にぼくの理想が重なれば、
どこにも問題はないのだけれども、まったく、重なりやしない。

それどころか、逆、反対、あっちとこっち。ぼくの荒野には、必要のない有害なものだ。
詳述することはしないが、ぼくの荒野に、「関係性」や「歴史性」はいらない。
一人、舞台美術を書きながら、ぼく自身に両刃を突き付ける。

『孔雀狂想曲』北森 鴻
『狐罠』北森 鴻
『暁英 贋説・鹿鳴館』北森 鴻
『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』金水 敏
『顔のないテロリスト』ダニエル・シルヴァ
『泳げ、唐獅子牡丹』菊池 幸見
『翔けろ、唐獅子牡丹』菊池 幸見
『浜村渚の計算ノート』青柳 碧人
『双月高校、クイズ日和』青柳 碧人
『防衛医大の場合は―ドキュメント医療裁判』井上 静
『ギリシャ哲学の対話力』齋藤 孝