『編集者という病い』見城徹

2007年12月18日 22:53:58

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先日、友人のK(R)社長に、
「高木さん、この本好きですよ!きっと」
と、一冊の本を頂いた。

あっ、友人、と書いたけれども、
友人というのがどんなのか、どうにも良くわからない。
というか、
他人、他者、というものが、という方が正しいか。
他者を自分なりに規定すると、
「自分以外の他人」ということかな。
で、辞書をひいてみます。

他者;(大辞林)
[1] 自分以外のほかの人。
[2]〔専門〕< 哲 >あるものに対する他のもの。
自己に対する何ものか。

とあります。
なるほど、やっぱり他人ということなんだろうけれども、
他人をひくと同じこと。
というか、自分以外の他人、という規定をしていて、
自分というものを規定できないのだから、
他者というものがわかるはずがない。

今年40歳になった。
その頃から、まとわりつかれているこの不快感。
自分以外の何者も何物もわからなくなる不快。
街ですれ違う見ず知らずの他人も、
年中顔をつき合わせている仕事の仲間も、
一冊の本も、
一本の煙草も、
一本の万年筆も、

それが、何なのか、

わからない。

座り込んで考えて、出てくる結論はいつも同じ。
結局、
読むか、書くか、死ぬかしかないじゃないか・・・

『編集者という病い』
見城徹

そんな事々を考えつつ、
正座したまま一気に読んだ本。

タイトルどおりのないようです。
著者は編集者で、その仕事の軌跡を
ここが重要ですが、

一方的に、
書いています。

一方的故に熱情に溢れ、
その心は熱く、
彼の理念に傾ける情熱が苦笑交じりでわかります。

それは、本当に、「分かった!」というほど分かります。
けれども、

と、考えるわけです。

一冊の書物というもの。
それは、
著者と読者の間に少なくとも交流を持つものです。
その交流は、交通、と言い換えてもいいのですが、
一本の、或は複数の回路をつなぐこと。

ページを開き、一行を読む。
一ページを読む。
次第に出来てくる交通路。

著者の何かが運ばれてくる。
そして、読者の何かを送り込む。

それが、書物、というものではないかと。

そういう観点から論じると、
本書とは、一本の通路も確立できなかった。
ただ、太くて丈夫な著者からの道路があった。
その道路を通って、
著者に行こうとするのだけれども、
「情熱」や「熱情」という一方的な熱が邪魔をして、
いけなかったのでした。

それが、良いとか悪いとか、という話ではありません。
一方的に伝える、それも、
役割の一つに違いはないのですから。
しかし、それは、書物が行う仕事では、ない、気がします。
そして、もう一つ。
この体育会系ばりの熱は、決して嫌いではありません。
むしろ好ましく思えます。

でも、やっぱり、書物を読むということの自分なりの規定方法では、
この本と交通路を確立できず、

正座のまま、なのでした。