『天皇と東大(下)』立花隆

2008年2月27日 23:34:53

写真

風が吹くと、いろいろ綺麗になる気がする。
リラックマのカレンダに来週から数ヶ月先の予定を書き込んでみた。
びっくりするくらい、

いっぱいになった。
何がそんなに忙しいのか、

カレンダの一日の欄を上下二つに分けて、
上が昼間、下が夜。
カレンダの存在を否定しておきながら、
実際にはこうやって活用している。

毎日の連続性に疑問を持ちながら、
数ヶ月先、果ては来年の予定まで立てている。
朝、起きたら、天気が良くて、

風が強い。
音がするくらい風が強い。
足が冷えているのに気がついて、靴下を履いたら、
自分に意識があることに気がついて、
恐ろしくなった。

もしかしたら、何もかも放り出して、逃げ出したいのかもしれない。

せっかくのリラックマ・カレンダも
小さな文字で埋まり、
間抜けた顔をしているリラックマにコリラックマに黄色い鳥が、

見えなくなった。
これでは、本末転倒だ。
リラックマが好きだから、このカレンダなのに、
その彼らの姿が見えないとは、なんという呆れた始末。

『天皇と東大(下)』
立花隆

こんなに面白い本を久しぶりに読んだ。

次は次は?
何?それは何?
どういうこと?

と、推理小説を読むようにどきどきしながら先へ先へ。

ノンフィクション、というジャンルだろう。
けれども、

それがどうした!立花というジャンルだ!
と、言っている。
驚くほどの調査量。本書を書く上で立花隆が読んだ資料は膨大だろう。
それら巨大な好奇心を良くぞ1500ページにまとめたものだ。

この一冊をきちんと追いかければ、
3年くらいは、楽しめる。
その長いスパンは、小説ではなかなか味わうことのできない始まりだ。
「20代は、ドストエフスキーだけでいい」と豪語した人がいる。
自分もそう思う。
それは、ドストエフスキーが一つの思想だからだ。
読書における長い始まりは、思想でしかありえない。
本書『天皇と東大』も、そんな総合思想の始まりを予感させた。

この本が、この世に存在していてくれて、嬉しい。

内容に関しては、いつか話すこともあるだろう。
誰かと語り合うこともあるだろう。
書くことがあるかもしれない。
演劇という表現をとるかもしれない。

今、目に映っているのは、時代。

時代、としか言いようのない、
人々の心。
感情、その思い。
この『天皇と東大』上下巻に登場する数多の人々。
有名無名関係なく、時代を駆けた数多の人々。
現在では、「悪」だと評されている人もいる。
けれども、彼らの思いつめた一念に感動する。

そう、時代という一念。